自宅の近くに、ほとんど自動車が通らない横断歩道がある。
それもあってか多くの歩行者が信号機を無視して交通している。
歩行者が信号を無視してもその横断歩道では事故が起こるわけではない。
ましてや自動車はほとんど通らないので、歩行者が信号を無視しようと迷惑はかからないのかもしれない。
しかし、私はあえてその信号機の示す赤色を順守してみたくなる。
多くの歩行者はあたかも信号機が存在しないかのように通り過ぎていくけれども、あえてそこで立ち止まってみたらどうなるだろう?と試したくなるのだ。
おもしろいことに後から来た歩行者が立ち止まることがある。
それでも当然のように、立ち止まっている人を追い抜いて横断する人もいる。
さらに待ち続けると待つ人が増えてくることもある。
ところで、人は人に影響されるという話を書きたいのではなくて、〈道徳〉の話を書きたいのだ。
〈道徳〉の意味をネットで検索してみると、意味の1つにこうある。
『小・中学校の教科の一。生命を大切にする心や善悪の判断などを学ぶもの。(goo辞書)』
私が小・中学校の道徳で学んだことは、「人の嫌なことをしてはいけない」ということだ。
小学校の時なんかは道徳の時間はドッジボールをする時間と決まっていたので、学んだことはドッジボールは楽しいということくらいだが。
さて、私と同様に多くの人々が「人の嫌なことをしてはいけない」ということを道徳で学んだことだろうと思う。
何が問題かと言うと、「人の嫌なことをしてはいけない」を守れば何をやってもいいのか?という点だ。
少なくとも私は人の嫌なことをしないとか迷惑行為をしてはいけないとかは学んだけれども、それ以外の範囲の限界設定は学ばなかった。
複雑な話に見えるかもしれない。
つまりは、人に迷惑をかけなければ信号を無視することも許されるのかという話だ。
(まぁ信号を守るかどうかはあくまでも例えであって、横断歩道の赤信号を絶対に守らねばならぬというカチンコチンの考えを持って、正義を振りかざそうとしているわけではない。)
人に迷惑をかけなければ、人の見てないところで盗みをはたらくことは許されるのか。
人が嫌がらなければ、ポイ捨ては許されるのか。
してはいけないのはわかるけど、ではどうすべきなのか。
やっぱり道徳が必要だと思う。
自分がしたくても、共に暮らす人々のためにすべきでないことをしないこと。
自分がしたくなくても、共に暮らす人々のためにすべきことをすること。
これが道徳だと思う。
私としては自分の娘にこの道徳観を学んでほしいと思っている。
子どものやることの多くは肯定的にみるけれども、すべきでないことも肯定すればそれはもはや放任と言えるかもしれない。
そんなふうに育つとやがて困るのは子どもだ。
さらには社会だ。
子どもに教えたい道徳観。
まずは自分の道徳観を育てねば。