競合的な私の話

昨日は競合的な生き方と協力的な生き方について書いたが、今日はそれを踏まえて。

私が大学生のころの話。
私は高校時代にバレーボールを始め、高身長だったこともありエースとして活躍し、優秀選手賞もいただいた。
その自負もあって大学でもバレーボール部に所属することにした。

しかし、私はチームに不満を抱くことになった。
自分が気持ちよくスパイクを打てるようなトスが上がらないし、あるいはトスにつながるようなレシーブがない。
トスもレシーブも悪くて、自分が気持ちよくスパイクを打てないのだ。試合中も大変不満気で、その不満さを態度で示すようになった。(なんという傲慢さ!)

私の心理はこうだ。
他の人のせいで自分はバレーボールを楽しめない。
他の人がうまくなれば自分はもっとスパイクを決めることができるのに。
そして、深層心理はこうだ。
チームが勝つか負けるかではなく、いかに自分が素晴らしいプレーができるかにしか関心はない。
他のチームから一目置かれるような選手であるためには、完璧なスパイクを打たねばならない。
だからチームメイトは私のためにベストなレシーブをし、ベストなトスをあげなければならない...。(なんという自己執着さ!)

そもそもバレーボールというスポーツはどんなふうであっても相手のコートにボールを落とせばいい。
すばらしいスパイクを決める必要なんてないし、泥臭くていい。
どんなかたちであってもチームの利益なのだ。
しかしながら、私はチーム全体の利益よりも、個人的な満足を追求していた。

これは紛れもない競合的な生き方である。
私がしあわせになるために人々はなにをすべきだろう?という思考である。
いかに優れているか、いかに注目されるか、いかに評価を得るかという自分への関心しかない。
このような生き方は自分をしあわせにするかもしれないが、他者をしあわせにすることはない。

もしも私に協力的な生き方を選ぶ【勇気】があったなら、レシーブやトスに文句を言わずに、自分にはなにができるかを考えただろう。
あるいはどのように点を取るかについてチームで話し合っただろう。
チームでいまできることをどう活かすかを検討しただろう。
自分が素晴らしいプレーをすることに執着せず、チーム全体でベストを尽くすことに関心をもっただろう。
私がしあわせになるために人々はなにをすべきだろう?ではなく、みんながしあわせであるために私になにができるだろう?と考えただろう。

そんな競合的な私よ、さようなら。
と言いたいところだが、まだまだ私は競合的だ。
そう思って気をつけよう。
競合的でなく協力的な生き方を選ぶ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です