おはようございます!
ブログ再開から42日目の朝です!
連日、アドラー心理学に基づいた良い対人関係の条件について書いてきました。
今日もその一つである『平等』について書いていきたいと思います。
『平等』というとみんな同じという意味で使われます。
辞書にも『差別がなく、みな一様に等しいこと。』と書かれています。
しかし、このような表現だと誤解が生じる可能性があります。
たとえば、子どもと大人の食事を想像してみてください。
子どもは離乳食を食べ、大人は離乳食を食べない。
これは不平等でしょうか?
平等であるならば、子どもも大人も関係なく離乳食を食べるのでしょうか?
さて、我が家の子どもとの関わり方を例に挙げながら、平等について考えていきたいと思います。
【平等ってどういうこと?】
何を平等と捉えるのかというと、人間の価値です。
私たちは大人でも子どもでも高齢者でも人間の価値としては平等です。
私たちはよく生産性で人間の価値を評価してしまいますが、その人に何ができるか何を生み出せるか、使えるか使えないかということで、価値の優劣は存在しない。
人間は何ができるかという行為のレベルで見るのではなく、ただそこにあるという存在のレベルで見ることが大切だと思います。
なぜこのように捉えるかというと、みんなが幸福であるために便利だからです。
人間の価値を生産性で見ると、生まれたての赤ちゃんや寝たきりの高齢者にはなにができるだろう?と考えてしまい、その価値を見失います。
生産性で人間の価値を見て、それによって優越感を得られる人にとってはそう見ることが便利でしょう。
ただし、みんなにとっては便利ではないわけです。
みんなが幸せであるための考え方を採用しようというのがアドラー心理学のスタンスです。
【我が家の平等】
よって、人間の価値としては平等だけれども、なにもかも同じでいなければいけないということではありません。
価値は平等、でも個性は違う、取れる責任も違うということなんです。
冒頭に書いた子どもと大人の食事についてですが、子どもと大人では消化能力や摂れる量が異なります。
だからこそ食べるものや量が異なる。
同じものを等しく食べるから平等なのではないということです。
ただし、責任を取れる範囲で自由を主張することはできるはずです。
他の例で考えてみましょう。
例えば、テレビやYoutubeの視聴時間。
大人は無制限に見るけど、子どもの見る時間は制限されているってことはありませんか?
これは子どもにしたら不平等を感じるかもしれませんね。
子どもに制限を設けるならば、大人にも制限を設けるのが適切でしょう。
しかし、この制限の時間は違うかもしれません。
テレビやYoutubeを見ることによる身体的・心理的影響は大人と子どもでは違うと思います。
子どもは長時間視聴することで大きな影響を受けるけど、大人はそれほどの影響を受けないかもしれないってことです。
もしそうだとしたら、子どもは15分、大人は30分というように時間の設定は異なっても平等と言えます。
でも正直、テレビの影響なんてわからないので、ひとまず大人も子どもも同じ視聴時間にしておくのが平等かもしれません…
テレビに限らずこのように権利を等しく主張できることを認めるのは、子どもと大人がよりよい関係であるために必要な条件でしょう。
大人はどうしても子どもを下にみて支配してしまいがちです。
すると、子どもも人との関係を平等には見れなくなります。
自分が上で、他の子は下だと、そんなふうに捉えていたら悲しいことですよね。
【今日のまとめ】
なにが言いたいかというと、子どもと大人には人間の価値としての優劣はないということ。
そして、個人の個性や特性、責任のとれる範囲内で自由であること、他者に迷惑をかけない範囲で自由であることが平等ということです。
大人が権利を主張するなら子どもにもその権利を最大限主張できるよう配慮することが必要だと思うわけです。
ではまた明日!
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