合理主義の罠を越えて──子どもと非合理を楽しむ暮らし

現代の子どもたちは、いつも忙しく動いています。学校が終われば塾や習い事、週末も予定が詰まり、何もしない時間や、理由のない行動を許される場面はどんどん減っています。大人たちもまた「将来のため」「役に立つから」と理由をつけ、あらゆる行動を目的合理的に考えがちです。

しかし、そんな暮らしの中で「これで本当にいいのだろうか」と立ち止まる瞬間もあります。子どもたちが「それ、なんのため?」と問い、目的のない遊びや芸術、何気ない時間を無駄とみなし始めているとしたら、それは合理主義が私たちの暮らしに染み込みすぎたサインかもしれません。

合理主義は、一見正しそうに見えます。役に立つことを選び、無駄を省き、効率よく目的を達成する。その積み重ねが社会を発展させてきたのも事実です。けれど、その先に何が待っているのか。行き過ぎた合理主義は、意味のないことを排除し、偶然や遊び、余白を失わせ、人と人、自然と心のつながりを断ち切ってしまいます。その結果、心の余裕は奪われ、誰もが目的に追われ、世界が機械のように乾いた場所になっていくのです。

本来、人間の暮らしは非合理な行為に満ちていました。誰にも評価されない絵を描き、意味のない歌を口ずさみ、ただ空を見上げてぼんやりする。そうした無駄こそが、心のバランスを保ち、しなやかな感受性を育んできたのです。遊びや芸術、寄り道や無駄話は、役に立つかどうかではなく、その行為の中でしか生まれない関係性や発見があります。そこには、予測不能な偶然やひらめき、人との微妙な距離感の調整があり、それこそが人間の豊かさの源泉なのです。

合理主義が生み出すのは、数字で測れる成果ばかり。でも人間が本当に必要としているのは、数字にも理由にもならない感動や発見、心がふと動く瞬間です。子どもたちにも、大人にも、「なんのためでもないけれど、面白い」「意味はわからないけど、やってみたい」そんな時間が必要です。

そこでひとつ、提案があります。今日だけでも、暮らしの中で「なんのため?」と問わずに過ごしてみませんか。
目的も、意味も、成果も求めない行動を、自分に少しだけ許してみる。何気ない寄り道、無駄な遊び、わけもなく絵を描く、歌う、笑う。
合理主義の先にある心の砂漠を越えるために、そんな非合理の時間こそ、私たちをもう一度世界と、人と、自分自身とつなぎ直してくれるものになるはずです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です