子どものために大人が『大人』になる

おはようございます。
ブログ再開から11日目の朝を迎えました。
早起きして作業することも染みついてきた気がします。
また、早起きしていろいろやることを続けていますが、そうすると1日や1週間が長く感じます。
1440分(1日の時間)を大事に使えているということかな!?
ということで、今日も私自身の子育てとアドラー心理学の関連について書いていきたいと思います。
以下の娘とのやりとりのエピソードから、昨日は課題の分離について説明しました。
基本的に人の課題に口出ししてはいけないということや、どうしても口出ししたいときには許可を得るということ、口をださなければいけない例外もあるという話でした。
今回は『論理的な結末を体験する』ことによって、子どもの学びがあるということを書いていきたいと思います。

【もうすぐ2歳の娘とのやりとり】
夜、20時50分頃のできごとです。
娘はテレビでYoutubeを見ていました。
最近は21時には寝かしつけに入るので、私は「そろそろおしまいね」と娘に声をかけました。
すると、娘が「やだ!」「もう一回!!」と言いました。
それに続いて私が「じゃああと10秒ね」と言って、声に出して10秒カウントし、10秒経った瞬間に無慈悲にもテレビを消したわけです。
そうなるとやっぱり娘は泣いて抵抗しました。
私は「まだ見たいよね」とだけ声をかけてその様子を見守りました。
そしてすぐ娘は泣き止むんです。
で、いつものようにベッドに向かうことができました。
今日はこのエピソードの「じゃああと10秒ね」と言って、無慈悲にテレビを消す対応について書いていきます。

テレビを近くで見ている子供のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

【大人が自己執着を捨てると子どもは育つ】
子どもは大人にいろいろな要求を伝えてきます。
そしてそれが叶わないと知ると、何とかして要求を叶えようとしますね。
たとえば、泣いたり、大声をだしたり、地団駄をふんだり…
それで大人はどうするかというと、チャンスを与えることがあります。
「もう一回だけだよ!」「最後だからね!」などです。
そのチャンスが終わると、子どもはさらに要求を叶えようと企みますね。
さっきよりも大げさに要求を伝えてくるかもしれません。
で、大人はデジャヴかのようにまたチャンスを与えてしまうわけです。
この対応の問題点は、大人の発言がウソになってしまうことです。
つまり、「もう1回だけだよ!」「最後だからね!」が覆されている。
つじつまが合わない、論理的な結末でないということ。

どうしてこのように大人は次々とチャンスを与えるのでしょう。
例えば、泣くのを見たくない、大声をだしてほしくない、やさしい大人であることを子どもに知ってほしいなどかもしれません。
しかし、それは大人の自己執着なんです。
『私にとってどういうこと?』という視点でしかない。
『私』が子どもが泣くのを見たくない、『私』が子どもの大声を聞きたくない、『私』がやさしい人であることを知ってほしいということ。(キビシイ…)
本当に子どもに学んでほしいことはなにか、子どもにとってこれはどういうことかという視点を大人が持つ必要があるのではないでしょうか。
記事タイトルの通り、大人が『大人』になるということです。
自己への執着から他者への関心へというのが『大人』になるという意味です。

ま?

【子どもの能力を信じる】
子どもにチャンスを与えることがだめなわけではありません。
そのチャンスによって論理的な結末を体験することが重要だと思います。
つまり、「○○すれば△△になるよ」ということを大人がきちんと守って、子どもにその結末を体験してもらうということ。
娘と私の例でいくと、「じゃああと10秒ね」と告知してから、10秒後に必ずその結末を迎えるようにテレビを消すということです。
そんなことしたらかわいそうと思うかもしれません。
しかし、要求が叶わないことよりも、学びの機会を失う方がかわいそうと考えてみるとどうでしょう。
また、結末を体験して、そこから学んでくれる、自分で自分の気持ちに対処できると信じてみてはどうでしょう。
子どもの能力を信じて関わることは大きな勇気づけになります。

【選択肢を提示して子どもに選んでもらう】
よくお店のおもちゃコーナーやお菓子コーナーで駄々をこねる子どもを見かけますね。
店内で騒がれると大人もたまったもんじゃありません。
周囲の目が気になるし、早く帰りたいしと…
こういった場合どう対応すると良いでしょう。
その場をすぐに収めたい大人は「じゃあ1個だけだよ」と了承するかもしれません。
すると子どもは泣き止みますが、別の機会にまた同じことを繰り返すでしょう。
これは困りますね。
欲しいものがあるときは、騒げばいいということを学ぶわけです。
ここで学んでほしいことはなんでしょう。
いつでもあなたの要求が叶うわけではないということや、騒がないで落ち着いて言葉で要求してほしいということなどでしょうか。

閲覧注意】ピアノ教室に入会したかんしゃく持ちの小学生/約3年間の奮闘記 | 黒ねこメグ先生のピアノblog

ここで論理的な結末の登場です。
店内で騒いでいる子どもに対してこう伝えることができます。(ただし、イライラせずに!)
「あなたが騒ぎ続けるなら、私は先に帰ります。」
「あなたが騒ぐのをやめるなら、私はあなたと一緒に帰ります。」
「どうしますか?」と。
どちらを選ぶのも子どもの選択です。
そして騒ぎ続けるなら、それ以上交渉せずにスッと大人はその場を去る。
大人は有言実行し、子どもがほんとうにその結末があることを知る。
騒ぐのをやめて、帰ることを選べば「わかってくれてありがとう。助かるよ。」などと感謝を伝えて、勇気づけることができます。
あくまでこれは論理的な結末を説明する例です。
実際にこの対応をできるかと言われたら、物騒なご時世的にも難しいかもしれません。

男の子の頭を撫でているお母さんのイラスト

重要なことは、大人が自己執着せずに子どもに学んでほしいことを考えることです。
そして大人の対応が子どもの学びの機会を奪っていないかを見直してみる。
学んでほしいことがあれば、論理的な結末の選択肢を提示し、選んでもらう
その結末の体験を通して、子どもは学ぶわけです。
(娘と私のやりとりで私は選択肢を提示していませんが、それは結末を体験すべきでないからです。昨日の記事を参考に…)

さて、今日は子どもと関わる上での論理的な結末の選択を提示することについて書きました!
なかなか日常的に実践することは難しいことだと思います。
いつでもできるわけではありませんね…
でも機会があればお子さんとの関わりで実践してみていただけると良いかなと思います!
それではまた明日!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です