私の娘が2歳になったばかりの頃の話。
2人で風呂に入るのだが、私が先に風呂から上がってもろもろの支度をし、その間、娘に風呂で遊んでいてもらうことがある。
私は娘の様子を見守りながら、テキパキと着替えるのだが、ふと気づくと娘が口を膨らませてこっちを見ていた。
手には風呂で遊ぶ用のレードルを持っている。
私は一瞬にしてどういうことなのか理解した。
風呂の湯を口に含んだな…
それに対して、私が娘に「No」と伝えると、娘はバスタブの外にお湯を吐き出した。
そしてその後も様子を伺っていたら、レードルでお湯をすくって口に運ぼうとしたので、再び私が「No」と伝えた。
ちなみに「No」とか言っているけど私は英語をしゃべれるわけではない。
私は自分の着替えなどが終わったので、娘のいる風呂場に戻った。
娘は相変わらず、隙を見ては湯を飲もうとする。
私はレードルを持つ娘の手に手を添えて、娘の手をぶるぶると揺らし湯を飲むことを阻止した。
すると娘は笑い出し、さらに繰り返そうとした。
ここで何が起こっているかというと、娘の困った行動が起こっているのではなくて、困った行動をひきだすコミュニケーションが起こっているのだ。
つまり困った行動というのは、相手役がいる。
子育てをする上で、子どもの困った行動は多種多様にあるが、ほとんどの場合はその行動の相手役がいる。
なので困った行動をする子どもだけを問題視するのはナンセンスで、困った行動を引き出している大人がいることを忘れてはいけないと思う。
私と子どもの間で起こっている行動であり、コミュニケーションなんだ。
このように考えられると、子どもを変えようとするのではなく、自分の関わり方を変えようと思える。
これは大変大きな視点の転換で、変えることのできない相手よりも変えることのできる自分に目を向けられる。
例えば、いくら叱っても困った行動をやめないんです、というような話はよくある。
子どもは偉大な学習者なので困った行動をすると叱られることは十分わかっていることが多い。
分かっていてやっているんだ。
それにも関わらず、大人といえば叱るから困った行動をするということが分からない。
より叱れば、もう一回くらい叱れば、言うことを聞くだろうなんて思っていて、今までのやり方をやめようとはしない。
なぜなら人はとってもとっても保守的だから。
今までの投資先から別の投資先になかなか変えられない。
叱るのをやめたら、より悪くなるんじゃないかなんて思ったりして。
自らのコミュニケーションが、あるいは反応が子どもの困った行動を引き出していることにもし気づけたのなら、思い切ってそのパターンを断ち切ればいいと思う。
いくら叱っても困った行動をやめないのなら、叱るから困った行動をしているのだと気付いて、叱るのをやめたらいい。
とにかく誤っているのは自分だと気付いて、子どもを裁くことをやめるのが大事だと思う。
ちなみに先にあげた風呂での娘とのやりとりの場面でどうなったかというと、私は娘の行動に反応することをピタッとやめた。
そして、妻にコップに水をもってきてもらいそれを娘に渡し、「こっちを飲んだらどう?」と提案した。
娘はそれをごくごくと飲み干して、それから風呂の湯を飲むことはなくなった。
要は、困った行動の相手役から降りて、それだけで終わらず、代わりとなる適切な行動を提案するということ。